兔子Mona

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史料集:源賴光與源賴政的弓——雷上動

本篇是介紹一位與目前遊戲裡已實裝的太刀獅子王及尚未實裝的天下五劍之一童子切安綱有很大關聯性的一把……嗯,兵裝。

這位要實裝出來,只能作為上述兩把太刀的兵裝了,而且,九成九他還是不可能被實裝的,所以感興趣的話就當同人素材看看就好了。

(其實是為了機油的同人擼出的介紹文,免得大家看了還不清楚都誰是誰。)

注意:內含大量無翻譯的日文原文,中文部分大多由筆者我綜合各種版本的史料編寫成的,並不一定是所引用的日文部分的翻譯,建議連日文一起看,2015年10月2日新增補獅子王及其作者資料部分完畢。


●霊弓 雷上動


弓長 2.5m(弦長 八尺五寸)

五台山の麓の前後2つの頭がある蛇に法衣の糸2.5mを張って文殊菩薩が作った弓。

相傳是用五台山(今兵庫県丹波市氷上町)山麓雙頭大蛇的蛇皮由文殊菩薩所製成的弓。


*標準的和弓長度大概有2.2米(七尺三寸)。沒見過標準和弓長啥樣的可以去看看艦娘裡的加賀赤城……

五台山的寺廟滿多的,立有文殊菩薩像,嵯峨天皇頃建寺,天正年間遭兵火燒失,至於『前太平記』原文就沒寫明哪個寺。也有可能是在說中國的佛家重地五台山,但中國五台山是東漢永平(公元58年~75年)年間起的,早不到春秋時代去,當然日本嵯峨天皇在位時間為809年4月1日-823年4月16日更晚……所以雷上動的年齡不按其傳說出處為中國的來算的話其實和童子切差不多大。


『源平盛衰記』記名為雷上動(らいしょうどう) 

名前の由来は、その弦音が高いことを賞美してだという。

名字的由來就是對其弦音之高(鳴鏑如雷)的讚美。


『平家物語』記名為恨弓(こんきゅう)

鵺を退治した恨むべき弓。

就是因為退治過鵺而遭鵺恨的弓。


此弓原本屬於春秋時楚國的名弓手、同時也是文殊菩薩之化身的養由基。因為找不到能夠傳承自己的弓箭的人,養由基把弓箭托給女兒,在七百歲死亡。在這之後椒花女也正要死亡時出現在源賴光的夢中,並且把弓箭賜與給他。從此雷上動成為源賴家族的重寶,從賴光開始,經過賴國、賴綱,到賴政,一代一代的被傳承著。

搭配二枚鏑矢「水破」「兵破」,傳為文殊菩薩使用自己雙眼的眼珠所製造,水破的尾端附著著黑鷹的羽毛(黒鷲の羽根),兵破則是銅長尾雉的羽毛(山鳥の羽根)。


*考慮到日本人當時非常崇漢,坂上田村麻呂要硬扯是中國渡来人阿知使主的子孫,玉藻前都能吹成蘇妲己或褒姒輪迴轉生,這裡再來個枡花女托夢傳養由基弓……嗯,有誰覺得有何可信度可言吧?中國春秋時代,日本大概縄文時代,還在結繩記事,沒有文字。反正傳說這個就基本能肯定是崇漢吹出來的,一扯中國就立馬鍍金高大上了一樣。其本身很可能就是把滋藤弓:

随筆『南留別志』

ほかに言葉遊びなのか、「らいしゃう藤」(頼政藤)という意味だという文献もある。


『前太平記』出典:

前太平記、十八の「頼光亜臣自椒花女伝弓矢事」に

「我は楚の恭王の大夫、養由基が娘椒花女と云う者なり、さても我父由基、射芸を嗜めり、我時大聖文珠薩埵、養由に託して宣く、汝は是我化身なり、吾汝に三徳を教へんとて、文珠自ら双眼の睛を取つて、二の鏑に作り給ふ、是れを水破兵破と名付く、又五台山の麓に、両頭の大蛇あり、信楽漸愧の衣の糸を、八尺五寸の弦に綯係けて一張の弓となし、是を雷上動と云ふ、多羅葉を集めて直垂を作り、着せしめ給ふ、即ち件の弓籠を以て、柳葉を的として射る術を教へ給ふ、されば由基百歩を隔て、柳の葉を射るに、百発って百中る、或時晋と楚と鄢陵と云ふ所にて戦ひしに由基甲に蹲つて是を射る、盾七枚を射徹す、其精兵強勢此の如し、天下無双の名を顕し、弓を取れば、行雁も列を擾り、飛鳥も忽ち地に落ちぬ、然るに由基其寿七百歳を経て、既に命終りなんとする時、広く天下を見案するに、弓矢を伝ふべき人なし、娘なれば何時に授くべしとて、吾に伝置いて其身空しく成りぬ、今吾も亦命尽きなんとす、又伝ふ可き弟子なければ、心憂き事に思ひしに、大聖文珠、又吾に告げ給はく、汝所伝の弓籠を伝ふ可き者、扶桑国に在り、名を源頼光と云ふ、彼亦我化身にて童名を文珠と云へり、是れ此値遇あるが故なり、其器当に弓籠を伝ふべき者なり、急ぎ彼の国に到つて授与すべしと宣ひき、吾れ喜び思ふ事限なし、即ち此に来つて、足下に見ゆ、此弓籠を授く可しとて、水破兵破雷上動升に彼の直垂とを授けて、又雲居に飛去ると見給ひて、即ち夢は醒めぬ」


●關於養由基


上文『前太平記』可是提及了「驚弓之鳥」的成語典故,而「驚弓之鳥」的來源實則是魏國射手更羸:

搜神記卷 十一 魏更羸

楚王游於苑,白猿在焉;王令善射者射之,矢數發,猿搏矢而笑;乃命由基,由基撫弓,猿即抱木而號。

及六國時,更羸謂魏王曰:「臣能為虛發而下鳥。」

魏王曰:「然則射可至於此乎?」

羸曰:「可。」

有頃聞雁從東方來,更羸虛發而鳥下焉。


就先不去想日本人的漢學水平怎麼樣了,那麼養由基是什麼成語典故的來源呢?

百發百中、百步穿楊、射石飲羽


史傳記載

楚王獵於荊山,山上有通臂猿,善能接矢。

楚兵圍之數重,王命左右發矢,俱為猿所接。

乃召養繇基。

猿聞繇基之名,即便啼號。

及繇基到,一發而中猿心。

其為春秋第一射手,名不虛傳矣。

《戰國策·西周策》:

楚有養由基者,善射,去柳葉百步而射之,百發百中。

《呂氏春秋·精通》:

養由基射兕,中石,矢乃飲羽,誠乎兕。


●射鵺的傳說


鵺的最早出現記錄

《日本紀略》(延喜5年 905年2月15日 条)に、空中で鵼が鳴いたため諸社に幣を奉ったとある。

延喜5年時,聽聞空中傳來鵼之啼聲,於是天皇下令向諸神社奉納御帛祈求平安。


鵺的退治則有兩次


【第一次】

近衛院御在位の時、仁平の頃ほひ主上夜々おびえたまぎらせ給ふ事有けり。有験の高僧貴僧に仰て、大法秘法を修せられけれども、其験なし。御悩は牛刻許で在けるに、東三條の森の方より、黒雲一村立来て、御殿の上に掩えば、必ずおびえさせ給ひけり。是に依て公卿僉議有り。

の如くに、鵺出現の模様と仏僧の祈祷呪法は無効であった事を記し、次いで鵺は牛刻(=丑の刻、午前2時頃)に「東三条の森」の方から黒雲を立てて遣って来る事を記してます。そしての寛治の頃ほひ、堀河天皇御在位の時、源義家の先例を引き、以下の様に語ります。


然れば則先例に任て、武士に仰て警固有べしとて、源平両家の兵の中を選せられけるに、此頼政を選出れたりけるとぞ聞えし。此時は未兵庫頭とぞ申ける。頼政申けるは、「昔より朝家に武士を置かるゝ事は、逆反の者を退け、違勅の輩を亡さんが為なり。目にも見えぬ変化の物仕れと仰せ下さるゝ事、未承り及ばず。」と申ながら、勅定なれば召に応じて参内す。頼政は憑切たる郎党、遠江国の住人、井早太にほろのかざきりはいだる矢負せて、唯一人ぞ具したりける。我身は二重の狩衣に、山鳥の尾を以て作だる鋒矢二筋、滋藤の弓に取添て、南殿の大床に伺候す。...(中略)...日来人の申に違はず、御悩の刻限に及で、東三條の森の方より、黒雲一村立来て、御殿の上にたなびいたり。頼政吃と見たれば、雲の中に恠き物の姿あり。是を射損ずる者ならば、世に有るべしとは思はざりけり。さりながら矢取て番ひ、南無八幡台菩薩と、心の中に祈念して、能引て、ひやうと射る。手答して、はたと中る。「得たりやう」と、矢叫をこそしたりけれ。井早太つと寄り、落る処をとて押へて、続様に九刀(こゝのかたな)ぞ刺たりける。

其時上下手々に火を燃いて、是を御覧じ見給ふに、頭は猿、躯は狸、尾は蛇、手足は虎の姿也。鳴く声鵼にぞ似たりける。怖しなども愚なり。主上御感の餘に、師子王といふ御劔を下されけり。

近衛天皇在位的仁平(1151-1154年)年間,在每晚半夜兩點的時候,從東三條森林的方向會飄來一陣濃密的黑雲,籠罩在清涼殿的上空,雲裡會傳出像是鵺的怪叫,弄得天皇心驚膽跳,天天睡不好,因而患了重病。公卿大臣們請來一堆高僧貴僧,祈禱作法驅魔,然而並沒有什麼卵用。於是他們就想起曾經寬治年間(1087-1094)堀河天皇在位時,也發生過類似的事兒。

當時堀河天皇也是每晚覺得恐怖睡不著覺,殿守將軍源義家就穿得一身威風凜凜的站在清涼殿的南殿紫宸殿蹲到半夜兩點,裝腔作勢的拉弓鳴弦三聲,高聲大喝「前陸奥守、源義家」,聽得人人皆寒毛倒豎,天皇的失眠症也就治好了,之後源義家的武名便名揚天下。

既然有此先例在先,那就再找個警護職的武士來試試吧,於是他們從源平兩家的武士裡選,選上了傳說中砍了酒吞童子的源賴光的玄孫源賴政,勅命賴政解決這次異變。頼政跑到關白攝政大臣藤原忠通官邸內的神社去求神拜佛了一通(藤原忠通…這人自己寫日記記自己戴過…嗯,我必須記住這篇不是來寫小狐丸的哈),然後穿著二重的狩衣,背上祖傳的雷上動和水破兵破,以及一桶山鳥羽箭,帶著遠州的郎党豬早太就去南殿了。

等到凌晨一點半的時候,東三條森林方向果然飄出一坨黑雲立在大殿上。賴政也看不清雲裡的目標在哪,只能盲射,他先心中祈念著南無八幡台菩薩射出了水破,水破劃過夜空的唳響驚動了黑雲中的鵺,鵺發出驚叫開始移動,兵破緊接著破空而至,鵺悲鳴落地,豬早太衝上前拔出太刀骨食對著黑雲連刺九刀,人們也拿著火把圍上來,最後呈給天皇御覽的是一隻長著猿頭、狸身、蛇尾、虎四肢的化物。

天皇終於可以安心睡覺了,於是欽賜御刀「師子王」嘉獎賴政。


師子王

佛學術語,師子中之王也,又作獅子王。譬佛菩薩無一切畏者曰師子王。無量壽經下曰:「如師子王無所畏故。」

太刀 無銘 黒漆太刀拵
重要文化財
大和傳 千手院派 豊後国 定秀 作(或 古備前  実成 作)
法量:刃長77.5 刃反3.0 元幅2.8 先幅1.8 鋒長2.4 茎長16.8(㎝)
拵長102.5 拵反6.0 柄長18.7 鞘長82.8(㎝)

鎬造,庵棟,鋒為魚棱形,刃尖成「伏心」,細身腰反高踏張強。胎鐵(地鐵)上的板目肌成「肌立心」,地沸有鮮明的映,呈白映狀。 刃紋煅燒成匂口收緊的直刃,用區上燒落。刀棱高,刀棱底明顯,成柾目肌,帽子(鋩子)為二重刃前燒斷。茎是未加工的生茎,先栗尻,鑢目檜垣,目釘孔一。
刀拵総金具是銅製黒漆塗。鞘口是革製黒漆塗。鐔為木瓜形,四方猪目透,練革黒漆塗。大切羽木瓜形,四方猪目透,銅製黒漆塗。小切羽銅製黒漆塗。柄為黒漆塗鮫皮包覆。鞘為黒漆塗。渡巻是赤地錦蒙上,紺絲菱巻(平巻),束帶與下緒由茶色皮革製成,推測原來柄上也曾有過繞線。刀與拵本身都是同一時代的優秀品。
重文指定年月日:1971年6月22日(昭和46.06.22)
指定番号:01881
目前所在地:東京国立博物館 東京都台東区上野公園13-9

紀定秀,生卒年 天永四年-応保二年(1113-1162年,50歲),祖先為三十六歌仙之紀貫之,追隨鎮西八郎源為朝上京,保元之亂中支持崇德上皇一方,因源為朝大敗逃向奈良東大寺後出家為僧,向大和國千手院派學習鍛刀技術,後被迎往豐前國英彦山邊擔任三千坊學頭職位邊傳授千手院佛法,通稱美濃阿闍梨,号賢聖房。作風高腰反小沸細直刃足入小切先。著名弟子為豊後行平,紀定秀傳為紀行平之父,或紀行平是他的外甥/養子,行平為後鳥羽院天皇御番鍛冶四月番,所作名刀有古今伝授太刀,秋草文黒漆太刀等。

*古備前 実成為10世紀生人,為備前傳早期人物,古備前友成父,活躍年代亦過早,天暦年間(947-957年)活躍。另一說為古備前高平?刀劍亂舞neta屋獅子王的頁面所寫,筆者我是尚未查到此說出處為何。備前三平中的高平同樣是年代過早,高平 生卒年 延喜十八年-長徳四年(918-998年,81歲),応和至永延年間活躍,換句話說,若獅子王為此二位中的任意一位所作,他的輩分就是鶯丸的父執輩,其年紀比除小狐丸外當前所有遊戲中已實裝的刀都大,有誰覺得這有可能嗎?……以獅子王刀的作風來看,當是紀定秀作的可能性更高吧,東京國立博物館亦表記此刀為大和物。但是呢,若按記載紀定秀的生平是保元之亂後方出家為僧學習的千手院門作刀技術,那麼獅子王的下賜時間顯然早於定秀的可能作刀時期,故或許是有關紀定秀的師承時間記述有誤,或許是獅子王的作者另有千手院派的他人吧。為何獅子王為無銘,原因估計一方面是為朝廷所製的刀劍多為無銘,例如後世的相州正宗,另一方面則是大和千手院派的刀自古多為無銘。

獅子王刀及刀拵原寸大資料圖下載(請勿商用)


之後鵺的遺骸按『源平盛衰記』是被就地埋在京都清水寺所在的山岡之中,按『平家物語』卻是被放進一條圓木舟「空船」中,丟到鴨川裡漂流去了,牠就這麼沿著鴨川、循淀川往下游漂流,所到之處皆發生了死病瘟疫,漂一路死一路,禍害甚大,於是受災各地的人們建起了鵺塚以慰鵺魂(大阪都島的鵺塚和兵庫県芦屋的鵺塚)。


1156年 保元之亂


【第二次】


去る応保の比ほひ、二条院御在位の御時、鵼と云ふ化鳥、禁中に鳴て、屡宸襟を悩す事有き。先例を以て、頼政を召されけり。比は五月二十日餘のまだ宵の事なるに、鵼唯一声音信て、二声とも鳴ざりけり。目指とも知ぬ闇では有り、姿形も見えざれば、矢つぼを何とも定めがたし。頼政策に先大鏑を取て番ひ、鵼の声しつる内裏の上へぞ射上たる。鵼鏑の音に驚て虚空に暫ひゝめいたり。二の矢に小鏑取て番ひ、ひいふつと射切て、鵼と鏑と竝べて前にぞ落したる。禁中さざめきあひ、御感斜ならず。御衣を被させ給けるに

二条天皇在位的応保(1161-1163年)年間,這次來的鵺被記作鵼,按先例又召來源賴政,賴政先射出一大鏑威嚇再射出兩小鏑,之後鵺的生死和下落不明。如果將鵺和鵼作為兩種不同的化物區分的話,這次射的這種也許不應被稱作鵺吧,所以後世說道鵺退治一般都是指近衛天皇那次。

*按『源平盛衰記』記載,代天皇賞賜師子王於源賴政的是當時的摂政関白太政大臣藤原基実(近衛基実)。基実是前述第一次射鵺中提到的藤原忠通的四男,他保元3年(1158年)8月起,年僅16歲擔任的二条天皇的摂政関白,1160年轉任左大臣,又與原文応保年間1161起的記述不符,倒是和紀定秀的師承及可能作刀時期對上了,那麼獅子王是否第二次射鵺時下賜的呢?就不可得知了。


關於豬早太及骨食

『源平盛衰記』中原是記載豬早太所懷的太刀叫骨食,是太刀不是短刀,但現代研究則認為太刀無法使用「懷」字相稱而推論其是把短刀,到底是太刀還是短刀其實是沒有定說的。同樣有懷字相稱的刀是『酒吞童子退治譚』中,藤原保昌所持的懷劍(懷太刀,這把刀作者一說是包平一說是助平),藤原保昌不可能只帶一把小短刀就隨源賴光率軍去征討酒吞童子,所以同理,太刀骨食本是不應因為被描述成懷就被改寫為短刀的。

骨食之名亦不為骨喰,沒有口字部,這把刀的刀工是奧州舞草鍛冶的鬼王丸,與骨喰藤四郎(粟田口吉光,寛喜元年生,正応四年死,1229-1291年63歲)及現存短刀 銘 國吉(粟田口國吉,元久元年生,文永四年死,1204-1267年64歲)無關。

『平家物語』等にみえる、仁平年間(1151-54、近衛天皇治世)における頼政の鵺(鵼)退治の際にただ一人随行し、頼政が射落とした鵺にとどめを刺した、という伝説で著名。 『源平盛衰記』によると、このとき早太が用いた刀は、頼政が彼に預けた短刀「骨食」である。また、とどめを刺すに当たっては「喉を一突きにした」、「九回刺した」など異同がある。

なお、江戸時代後期の儒者・志賀理斎(忍)は著書『理斎随筆』において、鵺退治伝説は頼政がまじないのため四方に鏑矢を放ったのが実態である(いわゆる奉射神事)とした上で、猪早太の名と鵺のいわゆる“頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎(異同もある)”という奇怪な姿とを関連付け、それぞれ「頭が猿=未申(南西)」「尾が蛇=辰巳(南東)」「手足が虎=丑寅(北東)」「猪早太=戌亥(北西)」を意味するとし、方角を埋め合わせるため彼の名を入れた、という推察を行っている。

江戶時代後期的儒者志賀理斎推說賴政射鵺傳說實為賴政拿著弓向四個方向各射出一箭來祈神而已,並沒有什麼復合怪獸般的化物鵺,這個就持保留意見,大家可以看看。


●破魔弓與破魔矢之祖


相傳日本古時,破魔弓有驅邪之效用,可在新年時給小男孩玩耍,驅除邪魔,也可裝飾在屋頂。日本男嬰所經歷的第一個新年正月被稱為初正月,為了祈福祝願,送給男孩子「破魔弓」是日本傳統的習俗。「破魔矢」則是作為新年首次參拜神社時所獻上的,以及新建築的房樑上面向鬼門的。現代的日本人通常在新年時,會從寺廟、神社等地方祈福後得到祝福飾物破魔箭,破魔弓是與破魔箭並存的配套擺設。


相較於童子切被記為斬鬼刀之祖,有傳雷上動因為射鵺被記為破魔弓之祖,然則對於破魔弓的由來有更早的說法:

昔、農耕が生活のすべてで、実りが生に直結していたころ、

人々が年の初めにその年の豊作を占い、勝負をあらそった競技に由来するといわれています。

また、弓には武勇を表し、邪気を退散させるという意味がありました。

そのような意味から神社などにかなり古くから色々な神事に使われていました。

宮中では皇子が誕生したときに魔除けとして鳴弦の儀式を行いました。

これを儀式射礼または大射といい、孝徳天皇の大化3年(647年)から行われ、これに用いる的として藁縄で丸い的を作り、これを「はま」といいました。

後に「破魔」の字が当てられ、魔障を破り払うという意味で男児の正月の縁起の祝い物となりなりました。

これらの神事が庶民の間に広まり、現在のような装飾品として飾られるようになったのは、鎌倉時代ころといわれています。

男児の初正月に、邪気を退散させ、勇ましく、健やかに育てとの願いを込めて飾るようになりました。


兵破水破則為新田神社主張的破魔矢縁起:

『神霊矢口渡』

初段の坊門清忠と義興の対立、義興と義峯兄弟の別れ、二段目の武蔵野原合戦での義興の戦いぶりなどその題材の多くを『太平記』に依拠し、また現在東京大田区にある新田義興を祭る新田神社の由来を絡ませてある。

これは義興の最期とその後日譚であり、武蔵国矢口の渡守の娘お舟と義興の弟義峯との悲恋を描いた四段目からが名高い。


六郷川の矢口の渡しにて、渡し守の頓兵衛は、先の足利と新田の争いで、褒美の金欲しさに足利方の手先となり、新田義興の溺死に加担した強欲者である。この家に、義興の弟の義峯が、愛妻の傾城うてなを伴って訪れる。頓兵衛の娘で、父とは似ても似つかない気立てのいいお舟は、気品ある義峯にひと目惚れしてしまう。連れの女性は妹と聞いたお舟は、積極的に義峯に迫っていく。しかし義峯を新田の落人と知った頓兵衛は、再び金目当てに、床下から義峯を狙う。手応えを感じた頓兵衛の刀の先には、苦しむ娘の姿が。お舟は自ら義峯の身替わりとなり、彼らを逃がしたのだった。瀕死のお船は二人を逃すために、追っ手の囲みを解く太鼓をたたいて追ってを欺く。追いすがる頓兵衛に、(義興の一念通力により)天から飛んできた新田家重宝の矢(水破兵破)が貫くという、悲恋物語である。


另一種描述:

新田神社

御祭神は南北朝時代の武将、新田義興公(1331-1358年11月11日)。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇方すなわち南朝方の新田義貞の次男。新田神社サイトによる縁起はこうです。


源内は福内鬼外/ふくうちきがいのペンネームで、義興謀殺と水破・兵破の矢の伝説を題材に、人形浄瑠璃「神霊矢口渡/しんれいやぐちのわたし」を書き上げます(1770年:明和7年初演)。上方中心の浄瑠璃には珍しい、江戸浄瑠璃と呼ばれるジャンルの代表格です。新田神社境内からお話が始まるんだよ。現在よく上演される四段目のあらすじは;渡し守の頓兵衛宅の家に一夜の宿を求めて、新田義峯と傾城の臺/うてながやってきます。二人は恋人で追っ手を逃れてきたのです。頓兵衛の娘お舟は、義峯に一目惚れしてしまいます。そのため、叶わぬ恋と知りながら、追手の足利方に味方する父を裏切って二人を逃しました。それを知った頓兵衛は後を追おうとします。説得のため立ちふさがるお舟を斬り捨て、後を追って行きます。瀕死のお舟は二人を逃がすために太鼓を叩いて追手を欺きます。追いすがる頓兵衛を、天から飛んできた新田家重宝の矢(水破兵破)が貫きます。


傳說在義興死後,矢口渡附近怨氣很重,每天夜裡都有一些不明發光物體在附近遊蕩,來往的人們都很害怕。於是,附近村落的百姓埋葬了義興的屍身,並在附近建造了一座神社,來祭奠他的亡靈,這就是新田神社的雛形,社殿後那個方圓約十五公尺的「御塚」就是義興的墳墓。在江戶時代,幕府將軍德川氏自認為是新田氏的後人,所以神社祭禮的規格進一步提高,義興也被尊為「新田大明神」。延享三年(1746),奧州守山藩主鬆平氏還在此地立碑,以彰顯義興的忠義,這裡甚至被人們稱為「武家信仰的神社」。另外,當時著名的蘭學者平賀源內還以義興被襲一事為藍本,編制了一部名為『神靈矢口渡』的歌舞劇,將新田一族所用箭矢有「水破兵破」之功效的傳說,延伸為神社中的「旗竹」能製成有除魔能力的「矢守」,這個曲目至今還流傳很廣,是此地「破魔矢」一說的由來。現在每逢十月十日,新田神社都會舉行盛大的祭祀活動,人們普遍認為義興靈魂中的怨念已被虔誠的心所淨化,他更多的是給人們帶來心靈上的安慰和寄託,「御塚」後方生長的篠竹和「破魔矢」的傳說就是明證。


『神靈矢口渡』

講述矢口渡的船夫頓兵衛因貪圖足利基氏的賞金鑿穿了新田義興的船,使義興主從13人全數喪生。之後被追殺逃亡中的義興弟弟義峯與遊女(名妓)うてな來到頓兵衛家借宿一晚,頓兵衛善良的女兒阿舟收留了他們,並對新田義峯一見鐘情,她積極的靠近義峯,然而這時兩人卻因一陣不可思議的力量呼吸困難然後暈倒。うてな意識到這是義峯所持來的新田家的白底黑條紋(類似其新田氏家紋一引兩)竹旗在作祟,揚起旗幟祈求二人恢復呼吸,成功救回了兩人。

頓兵衛家下人的六蔵看到旗幟後起了貪念,意圖殺害義峯夫婦去領賞,阿舟不願看見義峯夫婦遭到不幸,就仗著六蔵平時暗戀她來哄他說自己早就想嫁給他了,不希望他和父親爭功勞。六蔵聽罷相當高興,便放棄了殺死兩人的念頭轉去找頓兵衛。阿舟趁機放跑了義峯夫婦,將兩人帶到岸邊送上船。

此時聞訊趕來的頓兵衛手持太刀從後追出,頓兵衛看到兩人乘自己家船在河面漸行漸遠的身影勃然大怒,阿舟慌忙攔住父親試圖勸說,卻遭被貪慾蒙蔽了雙眼的頓兵衛揮刀砍下。

頓兵衛揚起信號狼煙看都不看重傷倒地的女兒就駕船追人,瀕死的阿舟拿起父親丟在地上的刀鞘爬到信號鼓前,用盡最後的力氣以刀鞘擊打太鼓,以圖欺騙看到狼煙將會前來的追兵那兩人已經被抓到,這樣包圍網就會被解除。

當她的呼吸隨著失血逐漸減弱,鼓聲也越來越小,將要氣絶而亡時,似是新田義興顯靈,天邊飛來了新田家傳下的重宝水破兵破,二矢將窮追不捨的頓兵衛貫體而過……

附:『神靈矢口渡』原著原文版 下載(上述簡介為現代歌舞劇改編版,故事情節會有不小的出入)


*就不論這個女兒對帶著妓女來訪的男人一見鐘情,轉頭坑死自己爹,那爹又不把女兒當人的故事說明了日本古代對女姓是什麼態度了。起碼是說明新田氏(至少在宣傳上)算是把源賴光的血吸和水破兵破都搞到手過了,然而新田義貞實則不是源賴光的嫡系後裔,他是源賴信到源義家的後人,那麼新田氏到底是如何「祖傳」到血吸和水破兵破的呢?就成了個和斎村(赤松)政広何以得到獅子王一樣的千古謎題了。

而雷上動他似乎沒有出現在新田氏的「祖傳」重寶裡面,現今新田神社寶物殿裡收藏的破魔弓是近世伊勢神宮(yes又是伊勢神宮)所賜下的弓。


雷上動很可能並未能被流傳下來,後世史料已無他的蛛絲馬跡,以仁王舉兵之日,不知他會否隨獅子王的爺爺源賴政一起,永眠於平等院中了呢……


傳說中小狐丸的藤原攝關家將坂上田村麻呂時代斬獲的的大嶽丸的頭顱,以及源賴光時代斬獲的酒吞童子的頭顱作為藤原氏的寶藏埋葬於平等院中,而後此地又成為了攝津源氏嫡流末代源賴政的戰敗埋骨之地,攝津源氏就此覆滅,雷上動若隨賴政葬身於此,藤原氏的寶藏又於後世的火災中悉數燒毀,對於童子切而言,此處當是承載了他一生中諸多功勛、輝煌、幸福……以及哀慟之地吧。
對於獅子王,此地的記憶亦恐怕是他一生中,最沉重的一刻。


圖1 雷上動與源賴光

圖2 源賴政射鵺

雷上動作為日本史上少數有威名的弓,和童子切一樣經常被各種遊戲拿來作素材,下面這是『最終幻想14』中的雷上動,及玩家實際裝備上後的外觀


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